東日本大震災。3月11日以後、いろいろなことが変わりました。
私は宮城県出身です。地震直後は、連絡のとれない家族のことが心配で、何も手につきませんでした。
そして、何度も行った事のある馴染みの土地が、津波で甚大な被害を受けたことに、心を痛める日々が続きました。
被害にあわれた方々のために、何かをしたい、しなくては、と想いが募る一方で、母として子どもたちを守らなければという使命感も同時にありました。きっと、みんなが同じ想いだったと思います。
そして、もう2ヶ月になるのですね。。
その間の私はというと・・・。本当に怒濤の二ヶ月でした。いろいろなことが起こり過ぎて、何から書いたら良いのかわからないほどです。
●スペインへの一時帰国
スペイン政府が、日本に住むスペイン国民に対して帰国するためのチャーター便を出すという話がメールでまわってきました。国内で、福島原発の事故に対する警戒感が高まり、早く危険な国から避難させなくては、という声が高まっていたからでした。
私たちは、東京にいる限り、原発事故については大丈夫だと思っていましたが、スペインにいる家族から毎日のようにある心配の電話に、せっかくのチャンスだから一時帰国もいいかもしれない、と思うようになりました。ちょうど子どもたちも春休みです。
ということで、急に家族でスペインへの一時帰国を決めました。もちろん、春休みが終わる前に帰国予定で・・・
そのチャーター便、なんとタイ経由でマドリッドまで26時間もかかるというものでした。日本からはタイの航空会社。タイからはスペインの航空会社です。
ノアの箱船のような不思議な旅でした。スペイン人とその家族ばかりが乗っている飛行機。(一部、ベルギー人もいましたが)
我が家のように、スペイン人と日本人の国際結婚家族が何組も。こんなにいるんだなあ。子供たち、可愛いなあ〜。なんて内心思いながら見ていました。
一番驚いたのは、マドリッドの空港で待ち受けていたメディアの数。特別に軍隊の空港に到着した私たちの飛行機。タラップを降りると、記者たちがパシャパシャ一斉に撮影。
後で、テレビのニュースを見たら、あんちゃんが自分のスーツケースをもって階段を降りているところが、一瞬だけ映っていました。
軍の施設に案内され、カフェで飲み物が振る舞われました。政府の関係者たちが、
「放射能汚染の検査を受けますか?希望されればですが」
と聞いてまわっていました。大げさですが、それほど心配されていたようです。
搭乗者たちのインタビューをきいても、ほとんどの人が、スペインにいる家族のプレッシャーで一時帰国した、と話していました。本当に放射能汚染を心配している人はごく少数でした。
この大げさすぎるように思える報道も、スペインではだいぶ静かになってきているようです。あれほど毎日報道されていた津波の様子もほとんどなくなりました。忘れられて行く恐怖を感じています。
さて、スペインでの様子などは、とりあえず、また後ほどゆっくりと書きますね。
もう一つ、大きな事件がありました。
●ヘルニアの手術と入院
さて・・・・私個人が体調を崩して入院してしまいました。長旅から帰国の翌日から、腰痛で動けなくなり、1週間後に救急車で運ばれて入院。結局、手術を受けることになりました。
地震の心労に加え、長旅の疲れが、たたりました。
入院なんて、子どものとき以来(出産を除けば)です。子どもたちの新学期の用意もほとんどできず、とても、申し訳ない想いでした。
そして、もっと最低なのが、被災地である宮城から、母に来てもらうしかなかったこと。まだ新幹線もないなか、しかも、偶然にも大きな余震があった夜に、夜行バスで東京まで来てくれました。
「あんたのためじゃないよ。孫がかわいそうなんだから。しっかりしなさい。」
と母に言われました。
入院生活は二週間あまり。なんとか、母のお陰で、自宅に戻ることができました。
とはいえ、まだまだ長い歩行は難しいので、少しずつ家事に育児に仕事に復帰です。
でも、それでも、、被災地に向けて何かをしたいという気持ちは全く変わっていません。
自分の身体が思うようにならない今、そんな私でもできる支援を、と考え続けています。
この件については、また、具体的になったらお話したいと思います。
この地震は、母として、宮城県人として、日本人として、そして国際結婚をしたひとりとして、たくさん、たくさん考えさせられる出来事でした。
二ヶ月がたち、東京では日常にもどりつつあります。それでも、被災地では、まだまだ復興にはほど遠い状態。助けを必要としている人がたくさんいます。
どんな小さなことでも支援を続けること、想い続けることを、忘れないようにしたいと思っています。